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安達哲「幸せのひこうき雲」──30年近く前に読んだセリフが頭にこびりついて消えない作品

2025/4/29 12:00

どのマンガもすごい! ──とはいえ、マンガ好きなら誰しも、心の中に“自分だけの特別な作品”を持っているはず。このコラムでは、人一倍マンガを読んできたであろう人々に、とりわけ思い入れのある、語りたい1作を選んで紹介してもらうことで、読者にまだ知らないかもしれない名作マンガとの出会いを届けている。第5回ではライター・編集者の山脇麻生氏が、安達哲の「幸せのひこうき雲」について綴ってくれた。

文 / 山脇麻生

「今日も罪深い者の勝ち」

「幸せのひこうき雲」の連載が始まったのは1997年。当時、マンガ編集者だった私の周りには、3年後に迫ったミレニアムへのうっすらした期待感と、2年前に起きた大きな震災や化学兵器テロを引きずった終末感が漂っていた。そんな相反する空気が蔓延する中、マンガ業界、特に青年誌界隈は成熟期に入り、新しい表現を求める読者と新しい表現を模索する作家との出会いの場になっていた。そこには、“寄り添い”とは無縁の“刺しに行く”表現も多く見られ、20代だった私は刺されるとわかっていても、あえてそういった表現を求めた。そして今、本作を読んでからもう30年近く経つのに、いまだ作中のセリフや場面が鮮明に記憶の端にのぼってくる。これはもう一生、消えないヤツだ。

登場するのは、田舎の小学校で4年生を担当する女教師・西條美津子。膝上のタイトなスカートに細いうなじ、艶っぽい長い睫毛。クラス内における美津子の振る舞いは暴君そのもので、スカートめくりをした男子生徒を下半身丸裸で授業を受けさせ、その姿を嗤う。

そんな彼女のクラスに、東京から丸藤竜二という男子生徒が転校してくる。幼いながらも人の機微を読み、性への好奇心も芽生えはじめた丸藤は、やり場のない苛立ちを抱えた美津子に命じられるまま禁断の関係を持たされる。正直、嫌悪感もあったが、目が離せなかった。

自分を御しきれない大人の女キャラに衝撃を受けたし、罪深い自分を罰してほしいと天に願いつつもそれが叶わず、「今日も罪深い者の勝ち」とうなだれる彼女の弱々しい姿が、遠いようで近いようにも感じられたからだ。このセリフ、今もやるせないニュースを見るにつけ、(作品の文脈からは外れてしまっているけれど)脳内でリフレインする。

ラスト10ページが特にいい

天に祈る直前の彼女は、丸藤と裸でいる現場を校務員に見られるのだが、己の裸身を覆い隠そうとすらせず強弁で相手の言説を封じ込める。実は美津子の母親は潔癖症のクリスチャンで、母の矛盾した言動が彼女に与えた影響が作中の端々に表れる。加えて詳らかになってゆく、若き日の挫折、男性性への嫌悪……。美津子の人間形成に影響を与えた要因とともに、1人の人間の内なる獣と善性が全1巻242ページによどみなく描かれる。とはいえ、作中には著者が誰かをジャッジするような視点は感じられず、美津子の心中が語られ過ぎることもない。「この先を読みたい」という読者の熱を冷まさず、かき乱しながら、田舎の女教師を巡るドラマは淡々と、ドラマチックに進んでいく。

誰かが放った言動が、ピンボールのように誰かの軌道を変え、どのような影響を及ぼしたかを端的に、軽やかに描いたラスト10ページが特にいい。ある告白を機に、美津子は180度変化し、低学年を受け持つ。そして、100円で仕入れたジュースを50円で売りたいという生徒を、「なんのもうけがあるんだよー」とやりこめる生徒を優しく嗜め、「おばあちゃんと熱海でのんだグァバジュースがとてもおいしかったのよね」と前者を肯定する。このシーンが好きで、何度も読み返した。

生徒に囲まれ、微笑む彼女の姿には神々しさすら滲む。しかし、物語は贖罪と人間性の回復では終わらない。大人が子供の柔らかな土壌に蒔いた種は、いつか狂気となって芽吹くかもしれない──そんな予感を滲ませ、終幕となる。

本作を最後に、著者は暗黒青春マンガとして名高い「さくらの唄」や「お天気お姉さん」にみられた過激なスタイルを封印し、無邪気で純粋な小さな姉弟と、2人を起点に周囲に広がっていくハートウォーミングな世界を描いた「バカ姉弟」を発表。そのシリーズを、媒体を変えながら今も描き続けている。「幸せのひこうき雲」を描き切ったからではないか、と勝手に思っている。

(コミックナタリー)
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